さわやかウォーキングで、山内一豊ゆかりの地と138タワーパークを訪ねて参りました。

  • 2009.04.29 Wednesday
  • 20:03
JUGEMテーマ:日記・一般
<旅日記>
 今日の名古屋地区主催のさわやかウォーキングは、”山内一豊ゆかりの地と138タワーパーク(東海道本線 木曽川駅) ”の1本のみでした。名鉄の電車ハイキング は、”水辺にそよぐ藤 天王川公園と山車蔵見学”ですが、藤は先週、たっぷり鑑賞したので前者に参加しました。
 名古屋駅5番ホームを9:00に発車した岐阜行き普通電車は、濃尾平野を北上し、枇杷島、清洲、稲沢、尾張一宮と各駅に停車した後、木曽川駅には9:20に定刻どおり到着しました。
 名古屋地区はこれ1本の開催なので、普段よりウォーカーが多いような気がします。
<木曽川駅です>
 木曽川駅は、愛知県一宮市木曽川町黒田東針口にあり、島式ホーム1面2線を持つ地上駅です。2008年(平成20年)4月12日に橋上駅舎が完成したばかりです。ホームのある本線の他に、上り線に2線、下り線に1線ホームの無い副本線(待避線)があります。
 地元住民の話によると、当初は文字通り木曽川のすぐ南側に設ける予定だったそうですが、周辺農家が、蒸気機関車が通る際の音、振動、煙等に鶏が驚き卵を産まなくなるのではないかと反対運動があり、今の位置に決定し、1886年(明治19年)6月1日に 国鉄の一般駅として開業しました。 ちなみに、改名によって旧木曽川町が誕生するのは1910年のことです。
 改札を出て、ウォーキングマップを受け取り、東口へ降ります。では、今日は、この曲以外考えられないんですよ。説明しにくいけど。この曲を聴きながらウォーキングしましょ。予備はこちら

 まずは、駅から0.4kmの法蓮寺に向かいます。
 一豊の山内氏が尾張国に名を表すようになったのは一豊の祖父・久豊からであると考えられています。一豊の父・盛豊は、尾張上四郡を支配する守護代・岩倉織田氏に重臣として仕えていたことはほぼ間違いありません。
<法蓮寺境内です>
 当時、山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、のち信賢)の配下にあり、父・盛豊は家老として仕えていましたが、岩倉織田氏は同族の有力者・織田信長と対立し、山内家もこれに巻き込まれます。
 弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に主家の居城・岩倉城が落城、この際に父・盛豊が討死ないし自刃したといわれています。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し流浪することとなります。
<盛豊と十朗のお墓です>
 一豊自身は、当初は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、その後、尾張を出て美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕えるなどしました。そして、永禄11年(1568年)頃には織田信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力となったと考えられています。
<山内一豊出生之地碑です>
 その後、元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いに参加し、顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取りました。このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢は、このとき矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されています。
 法蓮寺でお墓参りした後、3km先の138タワーパークに向かいます。

<ツインアーチ138です>
 ツインアーチ138は、 高さが異なる2本の双曲線アーチと、中央のエレベーターシャフトが「木曽三川の雄大な流れ」を象徴しています。 タワー最高部の高さは一宮市にちなみ、138メートルあります。アーチ式タワーとしてはアメリカのゲートウェイ・アーチ(高さ189m、ミズーリ州セントルイス)に次ぐ高さです。
 138タワーパークには、ツインアーチ138以外に約4,000株の四季咲きのバラが植えられている「バラ園」、コスモス等季節ごとに花が美しい花畑、日本初の本格的植栽迷路「ピサニの迷路・希望の塔」などがあります。
<記念撮影です>
<フワフワドームで遊ぶ子供たち>
<大玉で遊ぶ子供たち>
 小生、大人なので遊んでおれませんので、園内を少し歩いた後、2.7km先の北方代官所跡に向かいます。
 木曽川の堤防の上を歩いていくと、光明寺グラウンドが見えてきます。そこから、堤防を降り、さらに西に向います。
<右が木曽川河川敷です>
 JR東海道本線の下をくぐると、線路のすぐそばに北方代官所跡の碑があります。そこから、堤防を登ると、東海道本線の木曽川鉄橋があります。
<東海道本線木曽川鉄橋です>
 1987年(明治20年)2月21日、明治天皇は京都より帰京する際、当時、木曽川鉄橋がまだ建設中だったため、対岸の円城寺で汽車を下りて、仮橋を渡られ、ここに新設した御召替所で御休憩後、再びご乗車になり東京に向かわれました。
<北方高等尋常小学校跡にある記念塔です>
 記念塔を見学した後、東海道本線に沿って歩きます。
<岐阜行き普通電車です>
 黒田小学校の横をほり理容を過ぎると、黒田城址はもうすぐです。
<ほり理容です>
 黒田城は、戦国時代から安土桃山時代にかけてあった平城であり、初代土佐藩主となった山内一豊が生まれました。
<黒田城址です>
 黒田城址で山内一豊像を見た後、ゴールの木曽川駅に向かいます。
 ゴール直前、俳聖正岡子規の見染塚がありました。
<見染塚です>
 明治24年の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩しました。
 この時の思い出は、明治32年7月、子規が発表した小作品「旅」の中に「一生に只一度の思ひは残る木曽川の停車場とて、田の中に茶屋三軒、其一軒に憩ひて汽車待ち合わせしに、丸顔に眼涼しく、色黒き女、十六ばかり・・・心の奥迄しみこんで・・・其無邪気な顔どうしても今に忘れられず」と記されている。
 女は黒田の松本松之介二女「わく」、明治四年生まれ。わくはそうとも知らず子規をせきたて汽車に乗せた。
 地元ではこの秘話にちなんで記念碑を「見染塚」と名付けて木曽川駅構内に建てる話がたびたびもち上がったが実ることはなかった。しかし、「旅」の発表から90有余年を経てようやく待望の「俳聖正岡子規見染塚」がこの公園内に建設されました。
 ゴールの木曽川駅西口には、12:03に到着し、12:18発の普通電車で名古屋に向かいました。列車の中では、あのオバマさんが!! 
<LOL>
 偏向国営放送局 aka NHKが、”坂の上の雲”をドラマ化するらしいが、この正岡子規のエピソードの場面はあるのだろうか?まあ、あの放送局は、左脳に偏った局員が多いらしいから、こんな情緒豊なシーンはよう撮らんだろう。LOL。


より大きな地図で 138タワーパーク を表示

                                                   以上

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