鳥羽のおいしいハイキングで、菅崎園地・常永久の鐘と鯨崎をめぐって参りました。
2008.10.25 Saturday | category:旅日記
JUGEMテーマ:日記・一般
<旅日記> 今週末の名古屋地区開催のさわやかウォーキングは、”健康都市・大府と産業文化まつりを訪ねて(東海道本線 大府駅)”と”秋も街はフェスティバルで一杯、いこまい!安城。(東海道本線 安城駅) ”ですが、大府も安城も一部重複するコースを今年すでに歩いているので止めておきました。明日26日には、”「ふるさとじまんウォーク」中山道食べ歩き、温泉につかってゆっくりゴール(中央本線 中津川駅)”がありますが、昨年、同じコースに参加したのでこれも止めておきます。
で、名鉄や近鉄のHPを見ていたら、近鉄のサイトで”2008秋 鳥羽のおいしいハイキング”ってのを見つけたっす。10月25日は、”菅崎園地・常永久の鐘と鯨崎をめぐる”です。11月16日には答志島、11月23日には、菅島でのウォーキングもあるではありませんか。これは、是非、参加しておかねばと思った次第です。 このハイキング、近鉄のサイトで見つけたのですが、主催は近鉄でなく、鳥羽市観光協会のようです。
そこで、いつものように鶴舞駅で青空フリーパス2500円を買い、名古屋駅に向かいます。名古屋駅で、7:50発4両編成の快速みえ51号で鳥羽駅に向かいました。列車は、桑名、四日市、鈴鹿、津、松坂、多気、伊勢市、二見浦の順に伊勢平野を南下し、終点鳥羽駅には定刻どおり9:38に到着しました。
JR鳥羽駅の改札口を足早に抜け、駅ビルの2階に上がり、近鉄鳥羽駅の改札の前を通り、1階のバスターミナルに急ぎます。バスターミナルでは、”おいしいハイキング”のパンフレットなどをもらった後、パスの切符650円を購入しました。
ぎゅうぎゅう詰めの2台の三重交通バスは9:50に、カッパ寿司の裏にあるバスターミナルを出発し、畔蛸口(あだこぐち)バス停には10:18に到着しました。
<畔蛸口バス停です>全員が降車したところで、畔蛸口バス停からすぐ近くの西明寺に向かいます。
<西明寺境内です>西明寺の境内では、鳥羽ガイドボランティアの会の人によるハイキングの説明、鳥羽市観光協会会長の挨拶につづいて、軽いストレッチをしました。
ではでは、体をほぐした後、こんな音楽を聴きながらウォーキングしましょ。選曲の理由は、メロディーがこのウォーキングコースに合っているような気がするから。
西明寺を出てすぐのところに、浅利浜海浜公園があります。しばらく、海岸べりの道を菅崎(すげさき)園地を目指して歩きます。浅利浜の端まで来たところで、海岸から内陸の方に入ります。
<浅利浜海浜公園です>
旅館や民宿がたくさんあるんですが、やがて、旅館もなくなり、道も細くなり、雑木林の中を抜けてゆくと、菅崎園地に到着です。菅崎園地には、”春雨殉難記念碑”と刻まれた碑があります。
駆逐艦「春雨」は、日本の国産第一号の春雨型軍艦として、明治36年に竣工しました。日露戦争の際には、旗艦として、僚艦「吹雪」「有明」「霰」「暁」等とともに、第一駆逐隊を編成し、旅順港閉塞戦や日本海海戦で、得意の夜戦攻撃により数々の武勲をたてました。
1911年(明治44年)11月23日、春雨艦は、僚艦「磯波」「綾瀬」と共に横須賀軍港を佐世保軍港へと出帆しました。同日夜間に嵐に遭遇、避難のため的矢湾に向いますが、24日午前0時菅崎付近に座礁し、司令大瀧道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる大惨事になりました。翌朝、沖合いで嵐をしのいだ僚艦が、目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝えています。
<春雨殉難記念碑です>
早起きの小崎喜蔵は、嵐の後、浜に打ち上げられる海藻などの漂着物を探しに海岸に行ったところ、半裸の少年を発見した。志願兵だった少年は、喜蔵に春雨艦の座礁を告げ、助けを求めました。
喜蔵は、少年を背負い自宅まで運んだ後、家人に介抱を頼むと、すぐ、村役場に駆けつけました。相差(おおさつ)青年会の中から若手の海の猛者を選りすぐって、特別救助隊が編成されました。
27名の隊員は、ふんどしをしめ素肌に綿入れの仕事着をはおった姿で救助船・明徳丸に乗り込みました。荒波の中、隊員たちは必死に艪を漕ぎ、春雨艦の手前50mのところまで接近しましたが、その先は波のうねりが大きく危険で、近づくことができませんでした。
そんななか、中村隊長は苦渋の決断を迫られました。
「泳いで軍艦にたどりつける自信のある者3名、名乗り出てくれ・・・」
生きて戻れる保証はどこにもない、無謀とも思える提案でしたが、何のためらいもなく3名が名乗りをあげました。
荒れる海を泳ぎ、沈みゆく春雨艦の煙突の上で助けを待つ水兵にたどり着いた3名は、煙突に上り、力を合わせ水兵を助けようとしましたが、大波が襲いかかり、水兵の体は波にさらわれていきました。
<駆逐艦春雨遭難之地です>
もはや絶望と思われたとき、明徳丸から海に飛び込むひとりの隊員がいました。同時に、浜からもひとりの若い女性が荒海に身を投じていました。このとき、同時に救助に向かった二人は、奇しくも兄と妹でした。
人々が見守るなか、先にたどりついた兄が水兵の体をとらえ、抱き留めました。その姿に浜の人々の歓声が沸きあがりました。
こうした地元の人々の決死の救助により8名の命が救われました。
<春雨展望台の常永遠の鐘です>
春雨艦の殉難者の慰霊とともに、相差の人々の勇気ある行動を後世にも伝えるべく、自衛隊関係者や相差町内会関係者が集まり、供養祭がしめやかに行われます。
その後、殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建てられました。碑の文面は慰霊碑ではなく、殉難記念碑とし、殉難者の慰霊と救助に当たった村人の献身的な努力を称えることにしました。碑には昭和12年12月24日建立と刻されており、碑文は当時の海軍大臣米内光政大将の揮毫によるものです。今尚、菅崎沖に眠る44柱の英霊は、明治、大正、昭和、平成と時を越え、ひっそりと、村人に慰められ、見守られています。
展望台に設置された「常永遠(とことわ)の鐘」は、自然への畏敬の念と慰霊の心、世界平和をとこしえに伝えて行きたいとの願いを込めた癒しの鐘ですが、今では、鳥羽に4つあるという幸せを呼ぶ鐘のひとつに数えられています。
<相差漁港から臨む菅崎>
菅崎園地で常永久の鐘を突いた後、相差漁港に向かいます。漁港では、昼食として地元の食材を使った「ふるまい」を頂きました。


<相差漁港とふるまいです>
50分ほどの昼食を終えて、鯨崎遊歩道を歩きます。
<鯨崎の突端です>
遊歩道を歩いて、岬の反対側に行くと、海女小屋”はちまんかまど”がありました。小屋の中では、観光客が宴会をやっていました。
<海女小屋です>
”はちまんかまど”の横で、ホットコーヒーを頂いた後、海女文化資料館に向かいます。海女文化資料館の隣には、幹囲が3mもあるクロマツがあり、その樹形が天に昇る龍の姿に似ていることから”昇竜の松”と呼ばれています。
<昇龍の松です>
別名”開運の松”とも言われ、幹に手を当てると願い事が叶えられます。
<本多弥麗プロ、QTがんばって!!>
昇龍の松に手を当てた後、近くにある相差地区の氏神さんである神明神社に向かいます。
神明神社には25柱の神が祀られています。参道には、”石神さん”と親しまれている小さな社があります。ご祭神は、神武天皇の母 玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。
海女さんたちが古くから女性の願いならひとつは必ず叶えてくれると密かにお参りを続けていました。今では全国から女性参拝客の絶えることがありません。
<石神さんです>
神明神社にお参りした後は、すぐ近くの梵潮寺に寄りました。梵潮寺は、約700年前、後醍醐天皇の勅願により建てられた臨済宗南禅寺派の名刹です。境内には、樹齢700年以上の蘇鉄があります。
<長寿蘇鉄です>
樹勢は今もなお健在で、子孫繁栄、延命長寿を願う人々の信仰を集めています。
梵潮寺で長寿蘇鉄を見たあと、すぐ近くのバス停に向かいます。相差バス停には、13:30頃着きました。
<相差バス停です>
鳥羽駅までは、路線バスでなく、相差地区にある旅館のご厚意で旅館のバンで送って頂きました。
”今度は、菅島でおいしいものを食べたいなあ”と思いつつ、14:52発の快速みえ16号で名古屋に向かいました。
大きな地図で見る 以上
<浅利浜海浜公園です>旅館や民宿がたくさんあるんですが、やがて、旅館もなくなり、道も細くなり、雑木林の中を抜けてゆくと、菅崎園地に到着です。菅崎園地には、”春雨殉難記念碑”と刻まれた碑があります。
駆逐艦「春雨」は、日本の国産第一号の春雨型軍艦として、明治36年に竣工しました。日露戦争の際には、旗艦として、僚艦「吹雪」「有明」「霰」「暁」等とともに、第一駆逐隊を編成し、旅順港閉塞戦や日本海海戦で、得意の夜戦攻撃により数々の武勲をたてました。
1911年(明治44年)11月23日、春雨艦は、僚艦「磯波」「綾瀬」と共に横須賀軍港を佐世保軍港へと出帆しました。同日夜間に嵐に遭遇、避難のため的矢湾に向いますが、24日午前0時菅崎付近に座礁し、司令大瀧道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる大惨事になりました。翌朝、沖合いで嵐をしのいだ僚艦が、目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝えています。
<春雨殉難記念碑です>早起きの小崎喜蔵は、嵐の後、浜に打ち上げられる海藻などの漂着物を探しに海岸に行ったところ、半裸の少年を発見した。志願兵だった少年は、喜蔵に春雨艦の座礁を告げ、助けを求めました。
喜蔵は、少年を背負い自宅まで運んだ後、家人に介抱を頼むと、すぐ、村役場に駆けつけました。相差(おおさつ)青年会の中から若手の海の猛者を選りすぐって、特別救助隊が編成されました。
27名の隊員は、ふんどしをしめ素肌に綿入れの仕事着をはおった姿で救助船・明徳丸に乗り込みました。荒波の中、隊員たちは必死に艪を漕ぎ、春雨艦の手前50mのところまで接近しましたが、その先は波のうねりが大きく危険で、近づくことができませんでした。
そんななか、中村隊長は苦渋の決断を迫られました。
「泳いで軍艦にたどりつける自信のある者3名、名乗り出てくれ・・・」
生きて戻れる保証はどこにもない、無謀とも思える提案でしたが、何のためらいもなく3名が名乗りをあげました。
荒れる海を泳ぎ、沈みゆく春雨艦の煙突の上で助けを待つ水兵にたどり着いた3名は、煙突に上り、力を合わせ水兵を助けようとしましたが、大波が襲いかかり、水兵の体は波にさらわれていきました。
<駆逐艦春雨遭難之地です>もはや絶望と思われたとき、明徳丸から海に飛び込むひとりの隊員がいました。同時に、浜からもひとりの若い女性が荒海に身を投じていました。このとき、同時に救助に向かった二人は、奇しくも兄と妹でした。
人々が見守るなか、先にたどりついた兄が水兵の体をとらえ、抱き留めました。その姿に浜の人々の歓声が沸きあがりました。
こうした地元の人々の決死の救助により8名の命が救われました。
<春雨展望台の常永遠の鐘です>春雨艦の殉難者の慰霊とともに、相差の人々の勇気ある行動を後世にも伝えるべく、自衛隊関係者や相差町内会関係者が集まり、供養祭がしめやかに行われます。
その後、殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建てられました。碑の文面は慰霊碑ではなく、殉難記念碑とし、殉難者の慰霊と救助に当たった村人の献身的な努力を称えることにしました。碑には昭和12年12月24日建立と刻されており、碑文は当時の海軍大臣米内光政大将の揮毫によるものです。今尚、菅崎沖に眠る44柱の英霊は、明治、大正、昭和、平成と時を越え、ひっそりと、村人に慰められ、見守られています。
展望台に設置された「常永遠(とことわ)の鐘」は、自然への畏敬の念と慰霊の心、世界平和をとこしえに伝えて行きたいとの願いを込めた癒しの鐘ですが、今では、鳥羽に4つあるという幸せを呼ぶ鐘のひとつに数えられています。
<相差漁港から臨む菅崎>菅崎園地で常永久の鐘を突いた後、相差漁港に向かいます。漁港では、昼食として地元の食材を使った「ふるまい」を頂きました。


<相差漁港とふるまいです>
50分ほどの昼食を終えて、鯨崎遊歩道を歩きます。
<鯨崎の突端です>遊歩道を歩いて、岬の反対側に行くと、海女小屋”はちまんかまど”がありました。小屋の中では、観光客が宴会をやっていました。
<海女小屋です>”はちまんかまど”の横で、ホットコーヒーを頂いた後、海女文化資料館に向かいます。海女文化資料館の隣には、幹囲が3mもあるクロマツがあり、その樹形が天に昇る龍の姿に似ていることから”昇竜の松”と呼ばれています。
<昇龍の松です>別名”開運の松”とも言われ、幹に手を当てると願い事が叶えられます。
<本多弥麗プロ、QTがんばって!!>昇龍の松に手を当てた後、近くにある相差地区の氏神さんである神明神社に向かいます。
神明神社には25柱の神が祀られています。参道には、”石神さん”と親しまれている小さな社があります。ご祭神は、神武天皇の母 玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。
海女さんたちが古くから女性の願いならひとつは必ず叶えてくれると密かにお参りを続けていました。今では全国から女性参拝客の絶えることがありません。
<石神さんです>神明神社にお参りした後は、すぐ近くの梵潮寺に寄りました。梵潮寺は、約700年前、後醍醐天皇の勅願により建てられた臨済宗南禅寺派の名刹です。境内には、樹齢700年以上の蘇鉄があります。
<長寿蘇鉄です>樹勢は今もなお健在で、子孫繁栄、延命長寿を願う人々の信仰を集めています。
梵潮寺で長寿蘇鉄を見たあと、すぐ近くのバス停に向かいます。相差バス停には、13:30頃着きました。
<相差バス停です>鳥羽駅までは、路線バスでなく、相差地区にある旅館のご厚意で旅館のバンで送って頂きました。
”今度は、菅島でおいしいものを食べたいなあ”と思いつつ、14:52発の快速みえ16号で名古屋に向かいました。
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