電車沿線ハイキングで、赤馬の径でたどる吉良公伝説ときらまつりに行って参りました。

  • 2008.11.08 Saturday
  • 19:18
JUGEMテーマ:日記・一般
<旅日記>
 今日の名古屋地区主催のさわやかウォーキングは、”東海道有松開村400年と桶狭間古戦場公園を訪ねて(東海道本線 大高駅)”と”佐久間レールパーク祭りと民話の郷を訪ねて(飯田線 佐久間駅)”の2本です。が、今日は、JR線が走っていなくて、名鉄でしかいけないところにしました。
 ということで、名鉄の電車沿線ハイキング”赤馬の径でたどる吉良公伝説ときらまつり コース(西尾線吉良吉田駅)”に参加しました。
 名古屋鉄道名古屋本線神宮前駅7:27発の快速急行で終点吉良吉田駅に向かいます。電車は、堀田、鳴海、前後、知立、新安城と南下し、新安城から西尾線に入り、南安城、桜井、米津、桜町前、西尾、福地、上横須賀と停車し、吉良吉田駅には8:24に到着しました。西尾駅までは来たことがありますが、吉良吉田駅ははじめてです。
<吉良吉田駅です>
 吉良吉田駅は、愛知県幡豆郡吉良町吉田船戸にあり、蒲郡線と西尾線の始発・終着駅です。2008年(平成20年)6月29日ダイヤ改正時より、当駅で完全に運転系統が分断されました。行違い設備を備えた有人、地上駅で、西尾線のホームは2面2線の相対ホーム、蒲郡線のホームは旧三河線のホームの2面2線のうち1面1線を使用しています。
 吉良町のHPでは、吉良町史上の有名人を三人挙げて、吉良三人衆として紹介しています。では、今日は、この曲を聴きながら、三人衆の足跡を訪ねてウォーキングしましょ。 選曲理由?今日の空模様のように、しっとりした曲にしましたよ。

 駅のすぐ近くを通る県道42号を北上し、西福寺、海蔵寺の順にお参りします。海蔵寺のすぐ隣には、三河木綿の江戸送りの総問屋であった糟谷縫右衛門の旧邸宅があります。
<旧糟谷邸長屋門です>
 屋敷の中を見学した後、敷地内にある尾崎士郎記念館に向かいます。
 吉良三人衆の一人目は、尾崎士郎です。尾崎士郎は、明治31年(1898)2月5日、幡豆郡横須賀村(吉良町)に、繭の仲買い業を営む嘉三郎の三男として生まれ、6歳の時、母の実兄宅へ養子に出たが離籍され、横須賀尋常小学校へ通学します。その後、愛知県立第二中学校(岡崎高校)に学び、大正5年早稲田大学高等予科へ入学しますが、3年後月謝滞納等で放校処分されます。在学中から社会主義運動に関わりますが、やがて運動の偽善性を鋭く批判して離脱します。
<士郎さんの銅像です>
 尾崎士郎の銅像の横に記念館の玄関があります。今日は無料公開していました。
 昭和8年都新聞へ自伝的大河小説「人生劇場〜青春篇〜」を連載、2年後発刊された単行本が川端康成から絶賛され、一躍、大ベストセラー作家となります。青成瓢吉(あおなりひょうきち)を主人公とする同作は映画・演劇で上演されました。
 「人生劇場」は青春篇に続いて愛欲篇、残侠篇など全8篇、昭和34年に完結します。
 館内を見学した後、三河七御堂の一つである金蓮寺弥陀堂に向かいます。
国宝金蓮寺弥陀堂です>
 平安・鎌倉時代の様式を伝える阿弥陀堂は,全国でも20例ほどしか現存していません。なかでも金蓮寺弥陀堂は,当時の姿をよく残しているといわれ,国宝の犬山城天守や茶室如庵よりも古く,愛知県内最古の重要建造物です。
 次は、矢崎川沿いを花岳寺に向かって歩きます。
<花岳寺本堂です>
 花岳寺は、高家吉良家の先祖、東条吉良氏の菩提寺です。
 吉良三人衆の二人目は、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)公です。義央公は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石内蔵助良雄を頭目とするギャング団47名により、江戸本所の隠居所にて惨殺されました。
 すぐ隣の華蔵寺は、義央公をはじめ吉良家歴代の墓所があります。
<華蔵寺薬医門です>
 義央公の大部分の知行地は、吉良町にありました。当時、岡山村から南の地域は、大水のたびに被害に苦しんでいました。義央公は、水害から領地を守るため、長さ約180m、高さ約4mの堤防を一夜で築いたといわれます。その後は水害がなくなり、良田となったことから、人々はこれを「黄金堤(こがねづつみ)」と呼んで遺徳をたたえました。
<華蔵寺本堂です>
 義央公の実孫で養子の義周は、討ち入りの日、薙刀をもって応戦しましたが、負傷。その後、赤穂ギャング団に切腹の沙汰が下ったのと同時に、幕府より「当夜の振る舞いよろしからず(父を守れず、討ち死にもしなかったので)」と言うことで、領地没収のうえ、信州諏訪高島、諏訪家へお預けとなりました。  
<義央公のお墓です>
 厳しい制約を受けた幽閉生活も3年になろうとした宝永3年(1706)1月20日、義周は21歳の若さで没しました。名門、吉良家はここに断絶しました。
 御影堂にお参りした後、赤馬の径を通って、源徳寺に向かいます。
<源徳寺です>
 吉良の三人衆の三人目は、吉良仁吉(きらのにきち)です。
 吉良仁吉(きらのにきち)の本名は、太田仁吉です。天保10年(1839)吉良町横須賀で没落武士の子として生まれました。無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上での喧嘩で侠客の親分寺津の間之助(次郎長が無宿渡世の世界に入った際に長逗留した場所)に匿われたのがきっかけとなり、18歳から3年間を次郎長の下で過ごし、次郎長と兄弟の盃を交わしました。その後、吉良に帰り吉良一家を興しまた。
吉良仁吉は男じゃないか~
 侠客の穴太の徳次郎が、次郎長一家が世話をした伊勢の吉五郎の縄張りであった伊勢荒神山(いせこうじんやま)を奪います。仁吉は、徳次郎の手下や岡っ引らの仲介をも断って、世に言う「荒神山の喧嘩(血闘)」に乗り込みます。吉五郎側は勝利を収めましたが、仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡しました。享年28でした。義理に厚く若くして義理に斃れた仁吉は後世、人情物の講談や浪花節(浪曲)、演劇や数々の映画歌謡曲などの題材として よく取り上げられる存在となりました。
 この源徳寺は、静岡県清水の梅蔭禅寺(清水次郎長の墓)、袋井の大洞院(森の石松の墓)と並び、彼等の勝負強さにあやかるためのゲン担ぎのスポットとして有名で、ここ1番の勝負の前に訪れる勝負師も少なくないそうです。
 そこで、小生、仁吉さんのお墓の前で、本多弥麗プロが3rd QTを上位で通過できるようにお願いしました。
 ゴールのきらまつりメイン会場のコミュニティ広場はすぐそこです。広場には、青成瓢吉の立派な銅像がありました。
<三州の山猿、青成瓢吉です>
<士郎さんのメッセージです>
 「人生劇場〜青春篇〜」の刊行直後、1938年(昭和13年)佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の歌謡曲「人生劇場」が発表され(歌唱:楠木繁夫)、これは長く日本人の愛唱歌となりました。(村田英雄の代表曲でもある。)
 後年、人生劇場を手本にし、早稲田大学の後輩五木寛之は、自伝的な大河小説『青春の門』を書きました。
<ゴールです> 
 ゴールで手続きを済ませた後、祭り会場を散策したところ、ステージで森進一が”おふくろさん”を歌っていました。
<二代目柳家小三亀でした> 
 ぶらぶら会場を歩いた後、近くの上横須賀駅から佐屋行快速急行で帰りました。


大きな地図で見る                                 以上

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  • 2020.10.22 Thursday
  • 19:18
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    コメント
     秋のさわやかウォーキングも電車沿線ハイキングもあと1ケ月で、なんか淋しいです。
     浅野は、傷害罪、プラス、殺人未遂罪かも。今なら、心神喪失で無罪でしょうが。
     おふくろさん問題は、歌詞を改竄した森進一が全面的に悪いと思います。
    • ウォーレンさわかみ
    • 2008/11/11 5:17 AM
    こんばんは
    先ほど時代劇を見ていたら、光圀が大石内蔵助に対して、一度お目にかかりたかった、といっていました。

    あんな事件に巻き込まれて、もったないようにも思うのですが、浅野の罪は傷害罪なので、処罰が軽いほうが、吉良もおびえずに生き伸びたと思いますが。

    おふくろさん、判断の難しい問題のようにも思います。わたしくらいではわからないことばかりですが。

    どちらにしろ、つきつめすぎないほうが
    よろしいかも知れません。

    来週は用事がないのでまた歩きます。


    • たなか
    • 2008/11/10 9:20 PM
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